📖 この記事は前回の続きです → 第1話を読む
「本人はけろっとしています。」
担当医より
ICUの前で待っていた私に、担当医がそう言ってくれた瞬間——張り詰めていた糸が、少しだけゆるんだ気がしました。
でも、その夜。病院の駐車場に一人でいたとき、涙が止まりませんでした。
心筋梗塞で搬送された彼がICUに入ってから、私は宮崎に5日間程滞在しました。実は1年前にも、家族が急性大動脈解離(Stanford A型)でICUに入り、あの待合室の重さを経験したことがありました。——大切な人が集中治療室にいるとき、「支える人」として過ごすことの辛さは、何度経験しても、慣れるものではありません。むしろ、経験するたびに、その重さが増していく気がしました。
この記事では、その5日間に起きたことをできるだけ正直に書きます。医療情報よりも、「そばにいる人」がどう動き、どんな気持ちになるのかを、伝えたくて書きました。
1日目の夜——ICUの前で
病院に着いてから、担当医に呼ばれて説明を受けました。
左前下行枝(心臓の主要な血管の一本)が100%詰まっていたこと。ステントを留置したこと。祝日にもかかわらず循環器の専門医が院内にいて、カテーテル室がちょうど空いていたこと——重なった幸運についても、先生は淡々と、でも丁寧に話してくださいました。
そして、こう続けました。
「3人に1人が死ぬ病気です。抗凝固剤を強力に使っていきます。今後は一生、病院と付き合っていくことになります。」
担当医より
どれも事実として伝えてくださった言葉です。でも、聞く側にとっては、未来を一気に突きつけられるような重さがありました。看護師である私が正面から受け止めながら、「支える立場」として彼に何をどう伝えればいいか、しばらくわかりませんでした。
ICUの前で待っていた時間、胸がずっとドキドキしていました。何もできない、ただ待つだけ——わかっていても、あの時間はやはり、人をじわじわと消耗させていきます。
そこへ、担当看護師さんが声をかけてくれました。海水まみれの状態で立っていた私の様子を見て、シャワー室の予約をとってくれたのです。まさか病院でシャワーを借りられるとは思っていなかった。その一言がどれだけありがたかったか。その日は車中泊になると伝えると、「20時まで休憩室を使っていいですよ」とも言ってくれました。本当に本当に救われる言葉でした。
看護師をしていると、「ケアする側」でいることが当たり前になっています。でも正直に言うと、私はこれまでICUで働いていた中で、入院患者のご家族にシャワーをお貸しするという場面に遭遇したことがありませんでした。だからこそ、あの瞬間の驚きと感謝は、今でも忘れられません。何も求めていないのに差し出してもらった優しさを、全身で受け取りました。身も心も、救われた気持ちでした。
夜、友人が時間外受付においしそうなものを届けてくれていました。食欲はなかったけれど、届けてくれた友人の気持ちを思うと、自然と手が伸びていました。自分が倒れてはいけないと、自分に言い聞かせました。
そして——病院の駐車場に一人になったとき、それまで張り詰めていたものが一気にのしかかってきました。年末年始だからか、広い駐車場には私の車が1台だけでした。寝袋に入りながら、夢だったらいいのにと、何度も思いました。眠れなかった。そうして、1日目が終わりました。
2日目——期待と、現実の落差
前日の担当看護師さんから「明日には一般病棟に移れると思います。10時ごろ連絡します」と聞いていたので、朝8時半から病院の待合室で待機していました。
でも、10時を過ぎても連絡が来ませんでした。
勇気を出してICUのインターホンを押して聞くと、看護師さんが出てきてくれました。
「今日は採血のデータが良くなくて、まだICUにいてもらいます。」
ショックでした。心筋壊死の程度を示す指標の一つであるCK値を教えてもらいましたが、担当看護師さんから慎重に経過を見る必要があると説明を受けました。楽観できる状況ではないけれど、即座に絶望する状況でもない——その「宙ぶらりんの中間」が、一番しんどかったのです。
13時の面会で、彼の顔を見てホッとしました。点滴や各種モニターをつけながら、じっと安静にしていました。彼は大の病院嫌いで、何度健康診断を受けるよう勧めても、首を縦に振らなかった人です。そんな彼が突然の入院で、どれほど怖かっただろうと思います。それでも静かに横になっているその姿を見て、心の底から偉いと思いました。
「サーフィンはまだまだ先だよ」と伝えると、「絶対行く」の一点張り。病識がまだ薄いのが切なかった。それでも、その言葉に少しだけ笑いました。面会時間は限られていましたが、看護師さんがそっと目をつぶってくれて、しばらくそばにいることができました。
面会が終わった後、入院に必要な物品を買いに行きました。食欲はまったくなく、街のどこにいても彼の姿を探してしまい、自然と涙が出ました。
気持ちを落ち着けようと温泉に立ち寄りましたが、お湯の中でも涙が出て、全然落ち着けませんでした。帰りの車で親友から電話がかかってきました。その声を聞いた瞬間、それまで張り続けていた線が、ぷつりと切れたような気がしました。大泣きしました。あのとき電話を受けていなかったら、私はどうなっていたんだろうと、今でも思います。人って、誰かの声一つで、こんなにも救われるんだと知りました。また病院の駐車場に戻って、眠れないまま2日目が終わりました。
3日目(大晦日)——「生きていてくれてありがとう」
朝からぼんやりしながら、彼の携帯に届いたメッセージの返信をしていました。ふたりの間では携帯のロックナンバーも含め、全て教え合っていました。あのとき彼の携帯を開けたのは、そのおかげです。本当に良かったと思いました。彼はプロサーファーで、海を通じた仲間がたくさんいます。心配の連絡が次々と届いていました。ひとつひとつ丁寧に返信しながら、彼を大切に思ってくれる人がこんなにたくさんいることに、改めて気づかされました。
午後の面会時間まで待つつもりでいたところ、10時半ごろ思いがけず病院から連絡が入りました。「一般病棟へ移れます。」
急いで病棟に上がり、ソワソワしながら待っていると——車椅子に乗った彼の姿が見えました。
🌸 本当に嬉しくて、心の底から「生きていてくれてありがとう」と思いました。
ありがたいことに、一緒に一般病棟へ移動させていただけました。急いで買い揃えていた入院グッズを手に、ベッドサイドをひとつひとつ整えました。看護師さんから「今動いたら心臓に負担がかかりますよ。今は安静にしてください」と声をかけられ、彼もやっと現実を受け入れ始めた様子でした。
彼が一般病棟に移れたことは、本当に嬉しかった。でも、ほっとした気持ちの裏側で、疲れがどっと押し寄せてきました。こんな悲しい大晦日を迎えることになるとは、思ってもいませんでした。そんなとき、ちょうど宮崎へ旅行中だったサーフィンの先輩が、わざわざ遠回りして病院の近くまで会いに来てくれました。ファミレスで向かい合って話を聞いてもらいながら、自然と涙がこぼれました。大晦日の夜に、そこまでしてくれた先輩の存在が、どれほどありがたかったか。
22時ごろ先輩と別れて、また病院の駐車場に戻りました。そうせずにはいられませんでした。この日も、広い駐車場に私の車が1台だけでした。家族が心配して、「宮崎まで迎えに行く。」と何度も連絡をくれました。その気持ちがただただありがたくて、また泣きました。一人で迎える、大晦日の夜。眠れない日が続いて、倒れそうでした。
4日目(元旦)——「帰ってほしい」
元旦の朝、面会時間が始まるまでの間、駐車場の運転席でぼんやりと外を眺めていました。
そのとき、広い駐車場の向こうから、スーツケースをゴロゴロと引いた外国人の方が、まっすぐ私の車に向かって歩いてきました。驚いていると、車のドアをコンコンと叩かれました。
窓を開けると、その方は携帯の画面を見せながら言いました。「宮崎空港に行きたい。タクシーを呼んでほしい。」
Google翻訳を使いながら、なんとか会話しました。宮崎に詳しいわけではない私でしたが、2件電話して、2件目でタクシーを捕まえることができました。「青いタクシーが正面玄関に来るから、そこで待っていてください」と伝えると——笑顔で「You saved my life.」と言われました。
その笑顔と言葉に、私も救われた気がしました。
しばらく見守っていると、ちゃんと青いタクシーがやってきて、その方は笑顔で手を振って乗り込んでいきました。青いタクシーと、宮崎のヤシの木。その光景が今も目に焼きついています。THIHAというお名前のその方が、今も元気に過ごされているといいなと思います。

元旦の朝の、小さな奇跡でした。
その出来事のあと、友人たちも会いに来てくれました。車を届けてくれたり、何度も病院まで来てくれたり——でも面会は家族のみで、彼に直接会うことはできませんでした。それでも私のことを気にかけて、何度も連絡をくれました。彼らにとっても大切なお正月の旅だったはずなのに。ごめんなさいと、ありがとうの気持ちで、胸がいっぱいでした。
この頃、頭が本当に痛くて、フラフラしていました。それでも、動き続けました。
面会は談話室でしかできませんでした。しばらく待っていると、車椅子を漕いで彼がやってきました。その姿を見て、ただただ嬉しかった。でも同時に、いつもどこまでも元気で、海の中を自由に動き回っていた彼が、車椅子に静かに座っている——その姿が、胸に刺さりました。
「翌日は日本海側が大雪になるかもしれないから、気をつけて」と友人から聞いていたことを彼に伝えると——それまで一度も「帰って」と言わなかった彼が、こう言いました。
「帰ってほしい。俺が逆の立場でも、そう言うやろ。」
一般病棟での面会にて
後ろ髪をひかれながら、宮崎を離れました。途中、親友から「山陽道の雪がすごいから、夜中に走らない方がいい」と優しい連絡が届きました。その言葉で決心がつき、広島のパーキングエリアで車中泊しました。この日、何度も何度も私の安否確認をしてくださったサーフィンの先輩にも——感謝の気持ちでいっぱいです。
寝たような、寝ていないような——よくわからない日々でした。

5日目——帰路と、崩れた瞬間
広島の朝、目を覚ますと車の上にうっすら雪が積もっていました。宮崎とはうって変わって寒く、冬用のズボンに履き替えて、何度も休憩しながら帰路につきました。
京都府に入った途端、大雪になりました。見慣れた風景にほっとする反面、遠くにいる彼のことを思って悲しくなりました。
クタクタで帰宅するとすぐに、親友が差し入れを持って家まで来てくれました。その顔を見た途端、それまで押し込めていたいろんな感情が一気に爆発して、大泣きしてしまいました。彼女がくれた勇気と元気が、「このまま私がへこたれていたらあかん」という気持ちにしてくれました。
🌼 「人は一人では生きていけない」と、心の底から実感しました。
支える人が、壊れないために
5日間を振り返ると、私が動き続けられたのは、まわりの人たちのおかげでした。
- 🏄 浜辺で彼のそばにいてくれた友人
- 🚗 車を病院まで届けてくれた友人
- 🍱 食べ物を届けてくれた友人
- 🏥 祝日にもかかわらず懸命に処置してくれた先生と医療スタッフ
- 🚿 シャワーの予約をとってくれた看護師さん
- 📞 何度も連絡をくれた親友・家族・先輩
🤝 「支える側の人」が壊れないように、まわりがずっと支えてくれていました。
🌸 「しんどい」のひと言を誰かに伝えるだけで、孤独の重さは変わる。泣けるうちは、まだ大丈夫。食欲がなくても、口に入れ続けることが体を動かす。眠れなくても、横になるだけでいい。
それは看護師として知っていたことじゃなくて、「支えられる側」になって、体でわかったことでした。
大切な人が入院したとき、「支える人」自身もケアが必要です。自分を後回しにしないでほしい。あなたが倒れたら、誰が彼・彼女のそばにいるのか——そう自分に言い聞かせながら、私もなんとか過ごしました。
この5日間で感じたこと
あの5日間は、看護師としての私よりも、「一人の人間」として生きた時間でした。
待つことの消耗。情報が少ない不安。一人でいる夜の重さ。知っていたはずのことが、「知る」と「経験する」でこれほど違うのかと、何度も思いました。
もしあなたの大切な人が急な入院をしたとき——この記事が、「こんなふうに動けばいいんだ」「こんな気持ちになっていいんだ」という、小さな道しるべになれたら嬉しいです。
あの日、あの場所に、あの人たちがいてくれた。どれか一つでも欠けていたら、と考えると、今でも不思議でなりません。
【参考・情報源】
・日本循環器学会「急性冠症候群ガイドライン」https://www.j-circ.or.jp/
・厚生労働省「生活習慣病の予防」https://www.mhlw.go.jp/
※ 各サイトの情報は更新されることがあります。最新情報は各機関のウェブサイトをご確認ください。
【免責事項】
※ この記事は、個人の体験をもとにした記録であり、特定の診断・治療・服薬の指示を行うものではありません。
※ 心筋梗塞の治療経過や入院期間には個人差があります。記事内の内容がすべての方に当てはまるわけではありません。
※ 心身の不調を感じた場合は、自己判断せず、必ず医療機関にご相談ください。
※ この記事の執筆者は看護師国家資格保有者(看護師歴20年以上/外科・内科・集中治療・訪問看護)であり、ファイナンシャルプランナー資格を保有。また、元ライフセーバーとしての救護経験も有しています。医療・生活・海の安全にわたる幅広い知識をもとに執筆していますが、本記事は医師の監修を受けたものではありません。医療的な判断については、必ず担当の医師・医療機関にご相談ください。
※ 記事内の情報は執筆時点のものです。

